リリスと新月・満月
※こちらの記事は、自身のアメーバブログからの転載(改修)です。
私の太陽のサビアンは「紅葉の小道」です。
要するに「山の落葉樹」です。それは土地を肥やすもの。
後のナニカのために。(自分のためにもなるけど)
40~50歳を過ぎたら、まるで月が欠けていくように
人生はただ失うばかりだという人がいます。
私も、35歳くらい…自分の姿を
良くも悪くも把握しきれていないころ
そんな気持ちになることがありました。
いま思えば…ですが
どこが「前」なのかさえはっきり見えていないままで
「ただ老いて消えるだけ?」という
冷たい疑問がいつも心の底に渦巻いていました。
その頃の私の脳内には
何人かの人と、いくつかの建物くらいしか
はっきり「実在」してませんでしたね~
いま考えるとずいぶん小さくておかしな世界ですけど
その時は本当にそんな感じでした(笑)
みえない人は、色んな意味でいない人。
しらない事は、存在してないも同然。
まるで洞窟の中で暮らしているみたいですねw
どこか淋しくなるのも当たり前っていうか…
だから、なにか決めてみても
いつも「決定打」に欠けている…
モヤモヤ~っとして
気を抜くと後悔や違和感ばっかり湧いてくる。
でも、それはぜんぶ錯覚でした。
古い自我という繭の中にいたんだと思います。
もちろん自分の吐いた糸で作った繭。
なにかを守ろうとして。
なにかに逆らおうとして。
必死に吐き続けた糸が、今や
私という名の牢獄になっている…。
それに気づくのに数年かかりました(笑) ←鈍感
それを業というなら、そうなんでしょうね~
でも私は、過去・現在・未来の境目というほうが
有意義な気がします。
良くも悪くも、過去という「糸」は消えません。
なのに、実に不思議なことに
1秒前の自分にさえ触れることはできません。
1秒先の自分を決めることも、完全にはできません。
人生にとって、時間はあってないようなものなのに
糸だけは確かにそこにあるんです。不思議ですね~
過去や今の私という芋虫が作った繭ですが
毒蛇が出てくるかもしれないし
白鳥や魔女が出てくるかもしれない(笑)
人間の魂というのは変幻自在、幽玄夢幻なので
科学とは完全に違うベクトルです。
イカの卵から蝶々が出てくるんですから(笑)
だから占術というものがあるんだろうと思います。
占術は、人やナニカを観察することで出来ました。
なんで観察してる?
なにを観察してる?
幽かな光がそこにあるかどうかを。
3歳児のピカピカの目に映る、潤ったような
なにかを正確に映し出しているような
不思議なあの感じがどこにあるのかを。
大人の言動についても、同じです。
本当は、人間と神様の関係(運命)って
幽かでも玲瓏の光を感じるほうへ
進めばいいだけなんだろうなぁって
自他の経験を観察した上でもそう思うので…。
清澄な光と言ったほうが分かりやすいかな~?
中年以後の明暗を分けるのは、たぶん
そこらへんの部分なんだろーなー
自力でひっくり返せばいいんじゃないかな
ホロスコープなんか。
ひっくり返せなかったら、回り込んでみるのもアリ。
こういうのを精神的な「力技」っていうのかな?
心にも筋肉ってあるんですね~
もし、他の人はやってる悪いことじゃないコトで
違和感がすごいこととか
ちょっとヤダナーとか、興味ないーとか
自分が勝手に引っかかってることがあるとしたら
たぶんそれが、自分の壁ってヤツです。
それはたぶん、細胞膜みたいな…
一瞬なら、心のグーパンで抜けられる(笑)
その一瞬で飛び出すものがあれば、有意義です。
何も整っていないのに暴れても仕方ないですが💦
ホロスコープで最恐のリリスって
実はそういうことなんです。
手法によって5種類くらいあるリリスですが
私は1つだけを採用しています。
個人の最高と最低は高確率で比例しているから。
肉体の寿命だけは、神様のものですが。
リリスは私の知らない、私の魂の片割れ。
私という神の欠片。私に巣くう悪しきモノ(笑)
ゆえに到達し和合した時、より高き頂きにて開眼します。
確かな運命の道のうえで、限界と安寧を得る。
よって、私の占星術においては
最高到達点(遠隔点のど真ん中)だけを
リリス(モイラ)として扱っています。
リリスは5種類くらいあるという説もありますが
多少の欠点なんか当たり前ですし
現代の社会で完璧超人なんか目指しようもないし
苦労してしょーもないモンと向き合ったり
和合したってしょうがないですから。
どうせ艱難辛苦を乗り越えるなら
いと貴(たか)き山に登ろうよ、と。
もし新月の生まれで、その夜が真っ暗だったとしても
月の裏側に滑り込んでみれば
すっごい満月の神様(陽のリリス=モイラ)に
お会いできるかも知れません✨
リリスは常に、モイラの居場所をさしているのですよね~
魔と神は同じものです。
人間にとって都合が悪ければ「魔」、良ければ「神」
誰がわけたんだか知りませんが
だいたいあってるけど、根本的に間違ってもいます。
那須(栃木)の殺生石に封じられたとされている
九尾の狐(玉藻の前)も、成仏に喜んで
お礼をしたというお話があります。
その割には今もまだ硫黄だしてますが(笑)
リリスを知るのにすごく良いお話だな~と思います。
だからホロスコープを読むのって
一種類の目線からだけでは無理なんですけど…
リリスは貞子のキメ顔や幻惑の魔性に思えるけど
本当はきっとずっと、月の裏側の中心で
その人が「恐れや幻想を超えて来る」のを
ずっと待ってるんじゃないかな~
台座の中心を微妙に避けて待っている
クロートー(天王星)みたいに。
戻れるうちに、運命の糸を辿っていらっしゃいと。
それがわかるまで、リリスは業魔や厄災の女神だけど
追い付いたら、リリスは本来の大神モイラになる。
トランスサタニアンは、本当はその導き手…
一見、厄災の使者みたいだし
愉快でも爽快でもないかもしれないけど💦
無理っぽい。
でもなぜだか、必要な気がする。
なぜだか、懐かしいようか感じがする。
それは洞窟の出口から吹き込んでくる風かも。
洞窟出たら、「…あれ?」ってなって
私、この生き方もう無理じゃない?
洞窟を抜けるまでの限定的な方法だったんじゃない?
って、気づくこともあるかもしれません。
こう書くと、欲と光って似てるんだけど
ぜんぜん違うんですよね~、根本から目的まで。
欲はあくまでも自分だけのもの。
光はいつか出会う(生まれくる)誰かのためのもの。
それは明日の自分かもしれない。
数千年後の誰かのためかもしれない。
そうと知ってなお、今の私を有意義に生きる決意は
昔でいう「即身成仏(生きたまま仏となること)」
に近いかもしれませんね~
ダイレクトに自分に反映されない光かもしれない。
けど、回りまわって戻ってくる光かもしれない。
まるで天球儀や曼荼羅のようですね~
そのくらいゆるい(広い)ほうが、中年以後は面白いし
そうでないと見えないモノも多くなります。
遠い鈴の音のような、幽かな光を追って
無茶でへんてこな生き方をしてきた私ですが
後悔する結果にはあんまりなっていません。
だって、芋虫の私は生きるのが下手すぎたから
あんまり後悔のしようがないんですよね~
何が言いたいのかっていうと、夏が終わって
雪が降ってきたくらいで負けないでいいよってことです。
雪が降ったら、雪合戦でもすればいいのよ。
ずーっと春じゃないとダメってこともありませんし。
秋には秋の良さがある、冬には冬の楽しみがある。
それが中年以後や「今」を前向きに生きる
コツなのかな~と思います。
死後にさえ極楽を夢見た人も、昔は珍しくなかったし。
チビもいつか、自我の洞窟に入ってぬけて
たくましい眼をした中年になるんだろうと思います。
今のようなピカピカおめめじゃなく。
まずは私がオトナノススメを実行しないとな~と…
いろいろやっていきたいなぁと思っています🍵