神様っているの?
※こちらの記事も、自身のアメーバブログからの転載(改修)です。
魔女の秘密をちょっとばかり披露したことで
なんかちょっと…(´Д`)な気分のモーネルですw
自分で書いて自分でモヤっとするなんて
頭悪いなぁと思うんですが、やっぱり性分と言いますか
人様のお役に立てる可能性のほうが
メシのタネより大切だと…役立てることができる人は
いったいどれだけいらっしゃるのかわかりませんが(笑)
マニアックすぎますもんね💦
でも、ホロスコープのハウスや星たちが
なぜ実際の天体の動きとは逆向きに進行していくのか
その理由がわかるだけでも (←鏡面で見てるから)
ちょっとすっきりする部分もあると思います。
天動説の時代にできたのに…ね。
当たり前とされていたり、もっともらしい理由があったりして
皆が無関心になっている部分について
疑問をちゃんと持つことが大切なんじゃないかなぁと🍵
ここ数日、さんざん「運命の女神」について書いてきたので
「神様って本当にいるの?」
という根本的な部分について、不思議な体験によらず
現実的な形でお話したいと思います。
オカルトのカテゴリで活動しているわけではないので
書きっぱなしはよくありませんものね💦
著作権などの問題で直接画像を貼れないので
まずは「ブロッケン現象」で画像検索してみてください。
なぜ如来や天使や神様たちに日輪などがついているのか
一発でおわかりいただけることと思います。
天の羽衣伝説とか、巨人の伝説とかも…。
一定の気象条件(標高・湿度・光の角度)で
この現象が起きたのを、古代の人々が見たのでしょう。
どーみても、神様やそんな何かに見えますもんね~。
山岳信仰や五行陰陽もそうですし
多種の宗教において「高山」が聖地となった理由もわかります。
古代の人たちの経典・聖典には「嘘」がありません。
誤解や歪曲は多少あるかも知れませんが。
近代までの人たちにとっては、神様は本当に「実在」しました。
たしかギルガメシュ叙事詩だったと思うのですが
それに出てくる女神イシュタルを
モーネルはタロットの神様だと位置付けています。
「世界」のカードの図柄と
実在する「イシュタルの像」は非常にそっくりです。
タロットカードなどにご興味がおありの方は
ぜひ「イシュタルの像」で画像検索してみてくださいませ。
きっとご納得いただけると思います。
ですので、神様は実在するの?と言われたら
「います」と「いません」の両方が答えになりますね。
もしかしたら「いました」が正解かも知れませんが
神様は「昔いまし今いまし」←時空のワープ機能あり
ということらしいですから
昔いたなら、今もいるのと同じことかも知れません。
昔の人って、意味のない嘘をつきませんから…。
錯覚や見えないホログラムのように存在するので
触れることはできませんが
「光学現象」という形で現代にも実在しています。
いつか人類が滅んだ後も存在するでしょうね…。
サビアン占星術では
魚座などに光学現象のサビアンがハッキリあったりします。
現代でも、キリスト教などに天使の概念がありますし
仏教では観音様が人々を救済に来る時
様々な姿でやってくると言われています。
まず「神の定義」がハッキリしていない現状で
この問題提起の起こし方は、土台が破綻しているのですが
古代の人々がこういった現象を通して
「奇跡(聖)」というものにふれた瞬間から
何か尊い精神の高みや畏れ(理性)を
獲得したのかもしれないと思うと
あながち、神の「作用」すらない!とは言えない気がします。
感慨深いですよね…
もともとはただの光学現象だったものが
様々な誤解や歪曲を経て、人を幸福や戦争や文明の進歩に
駆り立てていく原動力になっているって…。(現代も)
この問題に触れるたび、私たちはまだ
「古代の延長」にいるのだなぁと実感します。
いくつかの光学現象と「スタンダールシンドローム」のような
精神的な作用が重なった時、何かを感じられたのが
古代のシャーマンや聖人たちだったのかもしれません🍵
知らない(わからない)ということは、時に
知っている(わかっている)ということよりも
ずっと大きく・有意義に働くこともあるという一例です。
(身近な現実問題はわかってないとダメですが💦)
モーネルも、「わからないもの」をあえて保持しておくことの
本当の重要性を忘れないようにしながら
知識や現実と向きあって行きたいなぁと思います。
私が言う「絶望の荒野に立つ自分を直視する重要性」と
「絶望なんか絶対にしなくていい‼」という2つの言葉は
この問題と同じように、けして矛盾するものではありません。
絶望的な状況の中で、どんだけ前向きに踏ん張れるかで
ミラクルを手繰り寄せることができるので。
特に奇跡や幸運に頼らなくても
自力で基礎力のレベルUpもできますし✨
トランスサタニアンの記事で書いたことですが
まずは自力で頑張ることが大切なのだろうと思うので
「何もわからない存在」について
「わからない→いないもの」と唯物論で単純化するよりは
「わからないままにしておくべきもの」として
唯心論の延長に位置付けたほうが
何かしらの大切な場面で、有意義な感覚を発揮する
可能性があるのではないかなぁと思います🍵